昌原倉洞の路地裏が新しくなりました。"ドゥセヌアトゥルリエ"、"クランショミエル"のようなフランス語の看板が、あちこちで目に付きます。ここは明らかに昌原ですが、モンマルトルの丘に来たような気分です。壁面のあちこちに写真が、建物の外壁には絵が、椅子一つ、小さなマイルストーン一つまで、芸術の痕跡が感じられます。ここに何があったんでしょうか。
倉洞は、6・25戦争時に文化芸術人たちの避難地で"慶南版明洞"と違いありませんでした。1980年序盤までは、馬山(昌原に所属する前)の地域タクシーが、倉洞のおかげで、全国でお金を一番稼ぐほどでした。当時、倉洞には、芸術家と市民たちが訪れる、喫茶店とマッコリ店が多かったんですが、夕方には空席がないほどでした。
しかし、地域の老朽化、80年代から加速化された、昌原新都市建設によって、人々が1人2人と去っていきました。多かった人が皆去って行き、荒れ果てた町内、そこには空き店舗もあちこちにできていました。状況が変わり始めたのは、2010年7月馬山と鎮海を吸収した、統合昌原市が発足してからです。50〜60年代の倉洞ルネサンスを再建しようというのが、当時のスローガンでした。芸術家たちが記憶を復元し、芸術村を造成することにしてすべてを改めました。でこぼこしていた歩道のブロックをすべて取り除き、古道の姿を思い浮かべることができる、黄土色の舗装道路を新たに造成しました。建物のフェンスに、絵の花が咲いたのもその時からでした。
それでは、倉洞芸術村には、ただの芸術作品だけがあるのでしょうか。いや、それを誕生させる作家たちも住んでいます。入居店舗の家賃のサポートや芸術家に様々な特典を提供したため、芸術人と芸術商人たちが積極的に流れ込みました。文化芸術の花を咲かせた、ロマンの倉洞路地に生まれ変わったわけです。