新羅文武大王は、生前に慶州へ通じる東海河口のどこかに寺を建てたかったんですが。しかし、その望みをかなえられないまま崩御し、死んだ魂が龍になり倭寇から国を守った、という遺言が残っています。
彼の息子神文王は、父王の意を受け継いで寺を建て、恵みに感謝するという意味で寺名を"感恩寺"としました。そして父王の魂が込められた、護国龍が出入りできるように、感恩寺金堂クドゥルジャン礎石の一方に穴を作っており、それは今でも感恩寺礎石で見ることができます。
ピェサジの遺跡がそうであるように、ここも寺の跡は消えましたが、石塔二つだけは金堂の前で"東"と"西"としてその座を守りました。それで今は
感恩寺としてではなく、地についてここを記念しています。仏国寺からも見ることができる、向かい合った双塔の姿が慣れましたが、これは統一新羅時代の石塔様式の原型であり典型となりました。
二段の基壇の上に三層の塔身石が置かれていますが、その威厳のある図体から新羅人の大胆な気性が感じられるようです。一つの大きな石で作られたものではなく、いくつかの石で組み立てられた形式の愚直さと、技巧のないシンプルさの美学が、一ヶ所で一団となっています。これだけでなく、両方の塔を解体して修理する時に、中で洗練された模様の仏具が発見されもしました。
ユ·ホンジュン教授は"私の文化遺産踏査記>で、様々な意見を述べています。名作には解説も余白の迷路も必要だと言うことのようです。あなたもこの感動を直接来て感じてみましょう。