1. 矗石楼(チョクソクル)
南江沿いの岩の絶壁に厳かに高くそびえ立っている矗石楼は嶺南で一番美しい楼閣だと言われている。高麗高宋28年(1241年)に建てられて8回に渡り、追加建設と補修を繰り返したこの楼閣は晋州城の南将台として将元楼とも呼ばれた。戦争が始まると晋州城を守る指揮本部にもなり、平和な時期には考試場としても使用された。朝鮮戦争の時に焼けてしまったものを市民達が力を合わせて晋州古跡保存会を作り、1960年に復元をした。建物は高床式になっており、楼閣の下の石の柱は昌原の矗石山から採石し、木材は江原道五大山から持ってきたものを使用し、楼には4つの扁額と詩が書かれた板がかけられてる。
▲ 矗石楼の扁額
2.南江 義巌 (ナムカン・ウアム)
南江の青い水の上、晋州城を支えている凛々しい崖の下に孤独な岩が一つ立っている。崖とつながったように見えるが、明らかに離れている危うい岩だと言って、元々危岩と呼ばれた。何の安全装置もなく、川を見下ろしながら浮いている岩を見ていると、怖くて足が触れる。こにの岩から倭将を抱いて飛び込んだ論介(ノンゲ)の勇気に驚くべきだ。
▲ 義巌
▲ 義巌事蹟碑
義巌のすぐ後ろには論介の行跡を称える義巌事蹟碑が建てられているし、崖の上の矗石楼(チョクソクル)には義妓祠(ウイギサ)を立てた。ここに立ち寄る人は論介の魂を慰める。
3. 晋州鄕校(ジンジュヒャンギョ)
▲ 晋州鄕校
晋州鄕校(ジンジュヒャンギョ)は、優れた儒学者の位牌を祀って、地方民の教育を担当するために建てた国立地方教育機関である。だが、いつ建てられたのか、正確な創建年代は知ることができず、高麗成宗6年代に現在の義谷寺の渓谷に鄕学堂で建てられたのが始まりであるというのを記録を通して知ることができる。朝鮮明宗13年代現在の位置に秒移され、壬辰倭乱(1592)の時、全焼されたが、工事をして復元させた。
4. 望鎭山烽燧台(マンジンサン・ボンスデ)
晋州と言ったら、ほとんど壬辰倭乱と関係がある晋州城と矗石楼(チョクソクル)などを一番最初に思い浮かべる。実際、戦闘が行われたところで勝利と敗北の歴史が共存する晋州城は、より格別である。しかし、この劣らず重要なところがあって、そこは望鎭山烽燧台(マンジンサン・ボンスデ)だ。緊急の時、煙りで一番最初に知らせたから、主要拠点地域で各個戦闘も可能だっただろう。
望鎭山烽燧台(マンジンサン・ボンスデ)は南海錦山の烽燧台と晋州市鳴石面(ミョンソクミョン)の廣濟山烽燧台の中間地帯に位置しており、晋州の初動防御に、とても重要な役割を果たしていたと推測される。円形の井戸状に積まれた烽燧台には、白頭山、漢拏山、晋州、晋州の月牙山の4つの石が使用されたとする。ところが、烽燧台基壇の下の部分を見ると、石を引いたように一つの穴が見えるが、これは、金剛山の石が置かれる位置だと。いつか韓半島が統一になれば、その時、金剛山の石を持ってきて空いている部分を埋めるという国民的念願が込められている。