1. 南海忠烈祠
壬辰倭乱が終わるその年に、露梁海戦で殉国した忠武公李舜臣の忠義と精神を称えるために建てられた寺院、南海忠烈祠。統営の忠烈祠と一緒に「忠烈(チュンヨル)」という扁額を最初から使ってきたし、朝鮮仁祖の時、建てられた。忠武公が戦死した後、彼の遺体が一時、ここに祀られた。
忠武公李舜臣が觀音埔(グァンウムポ)で戦死した後、遺体を一時的に安置した所でもあり、その場所にまだ假墓が残っていることが特徴的である。
2. 觀音埔里忠武公戰歿遺墟
(グァンウンポ・イチュンムゴン・ジョンモルユホ)
露梁海戦でよく知られて壬辰倭乱の最後の激戦地であり、忠武公李が殉国した場所で、1973年6月11日に史跡第232号指定された。
この長い名称より、「イラクサ」という名称で地域住民に呼ばれており、これは「忠武公の命が落ちた場所」という意味を持つ。
朝鮮と明の水軍が逃げていく外敵を打ち破るため觀音浦沖で最後の決戦を行われたが、その時、李舜臣将軍は敵の弾丸に当たって最期を迎えた。
南海地域の住民が忠武公を称えて作られたこの史跡の入口には忠武公の死を称える石碑が建っている。保護角の中に遺墟碑(ユホビ)が立っているが、その上にかかった「大星殞海」という文字は、朴正煕大統領が書いたもの。この史跡と続いた道は、南海を見下ろせる展望台まで続いている。
3. 菩提庵前・三層石塔
南海錦山の頂上に位置する菩提庵(ボリアム)、その前を堅固に守っている3層石塔である菩提庵前・三層石塔は周辺の素晴らしい景観とともに、さらに有名になった。伝説によると、683年に元曉大師社の錦山開山を記念するために訪問したキム•スロ王妃許太后が、インドの月之国から持ってきた「婆娑石(パサソク)」を利用して、菩提庵の前に立てた塔だと。
材質は花崗岩であり、高麗初期の樣式である。上部はちょっと破損されたが、後に復元した。高さ1.8mの石塔で、1974年2月16日、慶尚南道有形文化財第74号に指定された。