• 昌慶宮

住所
ソウル特別市鍾路区昌慶宮路185
アクセス
地下鉄3号線安国駅2、3番出口
一行情報
利用時間9時~18時30分(冬シーズン17時30分)/入場料1000ウォン/駐車場 有/毎週月曜日休館
詳細説明
1418年世宗即位後、上王である太宗のために建てたことで元々の名前は壽康宮でありました。世宗元年に太宗が一時居住しており、以降は王妃など王室の大人がとどまりました。儒教国家朝鮮の'孝'思想を端的に象徴する場所だった小さな宮殿。規模としては他の宮廷よりも小さいかも知れないが、昌慶宮の正殿や国宝226号である明政殿は現存する朝鮮の宮殿の中で最も古くて価値が格別であります。

壬辰倭乱の時にすべての全角が全焼して光海君の時、再建され今の昌慶宮という名前を付けたのです。その後も何度か火災が起きて曲折の歳月を送ったが、それはこれから起こる日本の凶悪に比べると何もないことでした。 1907年純宗が即位して日帝は彼の居場所を徳寿宮から昌徳宮に控除に移すことにした後、彼を慰労するという見かけの良い名目に昌慶宮の主要全角を一斉に崩したのです。全角が崩れた空き地には動物園と日本博物館が入りました。それとともに宮殿の名前も昌慶宮から昌慶苑に格下げさせたのです。また宮殿の内に日本の国花である桜を植え、1924年からは朝鮮の宮廷の中で倭国の花が舞う景色を見なければならなかったのです。

一方、昌慶宮は歴史の中で有名な話を抱いています。チャン·ヒビンが毒薬を受けて最後を迎えたのはここの昌慶宮内にある翠扇堂、そして英祖のせいで思悼世子が米櫃に閉じ込められて死んだところも宮内宣仁門の中庭でした。

昌慶宮は慶熙宮と一緒に日本で最も破壊を多くされた宮殿であります。火災や戦争による消失は歴史の宿命とも相違ないが、しかし日帝によって意図的に用途変更されて宮廷としての権威が地に落ちたという事実は確かに残念であります。この素敵な宮殿がかつて遊園地で、動物園であったことを思い出してみると当時の朝鮮の王室としては陵辱であります。今は当時の姿を復元し良くなったが、それでも傷はあちこちに残っています。ので、より切ない宮殿ではないでしょう。

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